平和を創る講座「私たちが見て感じたパレスチナ問題~ガザ侵攻から一年~」
第2回「未来が見えない~パレスチナ女性からのメッセージ~」記録
日時:2009年12月6日(日)13時30分から16時30分
場所:大原社会教育会館 会議室
講師:古居みずえ(ジャーナリスト、映画「ガーダ~パレスチナの詩~」監督)
参加者:省略
< 古居さんのお話 >
古居みずえと申します。どうぞよろしくお願いいたします。
これからお話させていただくにあたり、主に(1)パレスチナにたどりつくまで、(2)ガーダとの出会い、(3)その後の仕事という3つのことについて、お話できればと思います。
(1) パレスチナにたどりつくまで
まず一点目、私がパレスチナをフィールドとして、ジャーナリストとして活動を始めたきっかけは、私自身が大病を患ったことにあります。30代後半まで、普通の会社員としての生活を送っていたのですが、ある日、リューマチにかかり、そのまま体が動かなくなり、立ち上がることもできなくなりました。入院して3週間後、何とか体が動くようになりました。その時、病気になる前の元気な体に回復できるかと思うと、とてもうれしかったことを覚えています。入院期間は2ヵ月間に及んだのですが、その間、動けるようになって退院をしたら、何かを新しく始めたい、そこでは生きる希望を表現したいと考えました。大病をして、いつ死ぬか分からないという絶望的な思いの中での入院が、私に、自分をかけてこなかったこれまでの人生を悔いさせ、同時にこのまま自分の人生を終わらせたくないという気構えを育てました。
退院後、(人がもつ)生きる希望を表現したいと考えていた私は、その表現手段として、カメラを選び、カメラの操作技術について学べる学校に通いました。当初は、趣味で花の写真なども撮っていたのですが、ある日、(なぜ広河隆一さんの写真展に行こうと思ったかは詳しく覚えていませんが、とにかく)広河さんのパレスチナの子どもの写真展に行き、悲惨な状況の中でも負けずに生きている子どもたちの姿を撮影した写真に心を動かされ、人間が困難な状況の中でも負けずに生きている姿を写真に収めていこうと思いました。そして、広河さんと同じパレスチナをフィールドとして選びました。
(2) ガーダとの出会い
二点目のガーダとの出会いについてですが、そもそも、なぜパレスチナの女性の姿を追うようになったかと言いますと、前線で戦うのが男性であると同時に、イスラエル軍に捕まえられて監獄に入れられえてしまうのも男性でした。失業中の男性も多いがゆえ、家の内外でダラダラしている男性の姿も目につきました。しかし、女性はいつでもいきいきしていましたし、男性たちが外に出られないときには、女性が代わりに戦っていました。女性には女性の役目があって戦っていました。パレスチナの年配の女性は皆さん恰幅が良く、そうしたパレスチナのお母さんの力強さに憧れました。ガーダの夫のナセルは、既に結婚して30代になっていてもマザコンで、家の中で「ヤンマー(お母さん)、おれの靴下はどこ?」などと言っている姿を見たとき、男性をカメラで撮影するのもいいけれども、私は女性を撮りたいと思いました。さらに、男性でも魅力的な人は多いですが、やはり男性は、日本におけるのと同様に、建前の社会で生きているため、本音がなかなか出せません。しかし、女性(お母さん)たちは、自分の感情をそのまま出していました。そういう点においても、私は女性の姿を撮影したいと思いました。
ガーダと初めて会ったのは、1993年です。ガーダが23才の時に、私の通訳をしてもらったことがきっかけでした。会った当初から、すごくハキハキしていて、活発で、通訳として同行してもらうに際して「あなたは何がしたいの?」というように、私のほうが質問されていました。しかし、当初はガーダを撮ろうと思ってはいませんでした。私はガーダに対して、一般的なアラブの女性とはちがう、何か変わっているという印象は持っていましたが、具体的に撮影を開始したのは、ナセルとの婚約が決まって以降のことです。ガーダにとって、ナセルとの結婚は、何回もプロポーズされた末に、「私は私の人生を生きたい。そのことを了解してもらった上で、結婚したい」というものでした。半分余談になりますが、ガーダは長女なのですが、家事など家の中のことは一切しませんでした。代わりに、ガーダの妹がやっていたりしました。私は、ガーダが料理をしているところを見たことがありません。
ガーダは、パレスチナの年配の女性から、彼女がたどってきた人生の歩みについて、その歴史を決して忘却してはなるまいという思いから、インタビューを行っていました。パレスチナ、とりわけガザ地区は、オスマントルコ、イギリス、エジプト、イスラエルの4つの国の支配下に置かれてきた土地なのです。
アラブは、女性にとって自由に生きていくことが難しい場所です。女性たちは外出しても自由に寄り道をすることはままならず、夜間はそもそも一人で外出できません。また、結婚式を挙げた晩、すなわち初夜の翌日は、処女であったことの証として血のついたシーツを、自分の母親に見せることが慣わしとなっています。ガーダは、その慣習をとても嫌がりました。ガーダはそもそも、結婚式を行うこと自体も嫌がり、結局行いませんでした。新婚旅行に検問所を超えてエジプトに行ったのも、ガーダの周辺ではガーダだけでした。そうした一つひとつの行動を、ガーダは周囲を説得していくことを通して、実現させていました。その後、ガーダの周辺では、ガーダのようになりたい、ガーダのように生きたいと考える女性たちが増えています。
私がなぜパレスチナに惹かれ、通い続けているのかと言いますと、パレスチナについて報道されるニュースや私たちにもたらされる情報というのはいつも、悲しく、危険で、また暗く、現地では衝突ばかり起きているというイメージです。それは確かにパレスチナの現実の一側面なのですが、私はパレスチナに対するそうしたイメージを変えたいと思っていました。9.11の米国同時多発テロを契機として、テロ、とりわけ自爆テロに対する悪いイメージが広がりました。しかし、パレスチナの人たちは、とてもあたたかく、いろいろなことをしてくれる人たちです。よく言われることですが、パレスチナの人は、どれだけ自分の生活が貧しく、かつ苦しくとも、客人には最大限のもてなしをします。私は、映画「ガーダ」を通して、パレスチナ人にしてもらったことの恩返しをしたい、受けたあたたかいイメージをそのまま伝えたいと思い、映画を制作しました。
ガーダは、イギリスに留学して、大学院に通い、また現地で子育てもして、仕事もしてと、4役をこなす、すごく忙しい人でした。子育てはその多くを、夫のナセルがしていました。ガーダの抜けている部分を、夫のナセルが手伝っていました。私はよい旦那だなと思って、ナセルのことを見ていました。
ガーダはこれまで、自分の大切な親族や友人をなくし、いろいろなものを奪われて、そんな中でも必死に生き、闘わざるをえませんでした。大変な状況の中でも生きざるをえなかったガーダですが、でもガーダはまったく後ろ向きではありません。人はそれぞれ、役割を担いながら生きています。お母さんは家を守り、おばあちゃんは歌を歌うことで、家庭内での役割を果たしています。ガーダは子育ても闘いの一つだと言っていました。そして、その子どもはパレスチナのためだけに育てるのではなく、世界の希望のメッセンジャーとして育てたいし、育ってほしいということを言っていました。それは決して、偏狭なナショナリズムに陥っているということではありません。ガーダは、イスラエル人さえ、受け入れることのできる人ですから。
(3)その後の仕事
イスラエル軍のガザ侵攻後に、私がイスラエルに入り、子どもたちの様子を映像に収めました。これから皆さんに見ていただきたいと思います。(映像視聴)
ご覧のように、イスラエル軍の侵攻により、家を破壊され、家族や友人を殺された子どもたちが受けた心の傷には、想像を絶するものがありました。
顔を黒く塗っていた13歳の少女ゼナブは、弟と妹を除く、両親や親族20名以上が、イスラエル軍の攻撃により殺されました。イスラエル軍は一軒の家にその人たちを集めた上で、皆殺しにしたのです。その傷を癒すことができないゼナブは、家族を殺したイスラエル軍兵士の姿を忘れまいと、その兵士たちと同じように顔を黒く塗っていました。
カナーンは両親を殺され、周囲がどんなに励ましても癒されない心の傷を、絵を描くこと、描き続けることを通して癒していました。カナーンの将来の夢は、画家になることだと言います。その理由は、お父さんを殺した兵士とお父さんを描くためです。カナーンにとって最もつらく、忘れたいはずの傷を忘れたくないともがき、苦しんでいる子どもたちの姿を私は見ました。私は言いようのない怒りと悲しみを覚えました。
< 質疑応答 >
質問:ゼナブやカナーンと出会ったのは、どのようなきっかけからでしたか?
古居:イスラエル軍の侵攻があってすぐは、ガザに入ることができませんでした。しかし、私はかつて取材をしていた時に出会った子どもたち、その中で生き残った子どもたちに再会したいと思いました。だんだん会っていくうちに、ゼナブとカナーンにたどりつきました。彼(女)らが、今回の侵攻で受けた被害や心の傷の深さを理解するまでには、時間がかかりました。彼(女)らや彼(女)らの周囲の人たちが、時間をかけて、全部話してくれたおかげで、やっと理解することができました。また、言葉にならない、できない子どもたちは、自らが描く絵で表現してくれました。そのことにより、全体像が分かったこともありました。あれから半年後の今年7月にガザを再訪し、彼(女)らに会った際には、ご覧いただいた映像のようには話せていませんでした。それは、侵攻の直後には分からなかったことが、今では何が起こったかが分かるので、話したくないということのようでした。私は心理サポートの専門家ではないので、自分のできることには限りがありますが、彼(女)らの姿をできる限り見守っていきたいと思います。
2010年3月30日火曜日
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